さぬきうどん 至高のうまさとは
NHK総合テレビで制作・放映されたドキュメンタリー番組「プロジェクトX」。番組では、先達者たちの「挑戦と変革の物語」を描き、21世紀の日本人に向け「挑戦への勇気」を伝えています。
本番組で、吉原食糧の香川県産小麦「さぬきの夢2000」開発への取組みが紹介されました。
2004年7月6日放送「プロジェクトX 第149回 さぬきうどん 至高のうまさとは」では、ふるさと香川県の小麦粉開発にかけた人々の10年が紹介されました。成功の陰にはどのようなドラマがあり、数々の障害はいかなる秘策で乗り越えられたのでしょう。
2004年12月25日には上記内容を収録した書籍「プロジェクトX 挑戦者たち (25) ~勝利への疾走~」(NHK出版)が発行されました。
香川県人の「誇り」を取り戻す闘い
馥郁(ふくいく)たる小麦の香りともちもちした歯ごたえ。なめらかなのどごしのさぬきうどん。うどん生産量日本一の香川が全国に誇るふるさとの味である。
昭和30年代まで、6月の香川の農村では、見渡す限り黄金色に輝く光景が見られた。前年の秋にまいた小麦が実り、収穫期を迎えるからである。
しかしそんな状況が一変したのは、昭和38年。いつ降りやむとも分からない記録的な長雨が収穫時期の6月に続き、小麦は壊滅する。間もなく、海を越えて日本に運ばれてきた小麦があった。オーストラリア産の小麦だった。この小麦は、うどん用に極めて適していた。純白の色目、コシ、つや。しかも大規模に栽培されるため、品質にばらつきが無く安定しているのも大きな魅力だった。瞬く間に香川にもオーストラリア産小麦が浸透していった。オーストラリアの小麦で作ったうどんは消費も伸び、香川のさぬきうどんは全国的に有名になった。
だが、うどん職人は何かもの足りなかった。それは“風味”だった。かつて子供の時代に食べた地元の小麦だけがもつあの香りが、オーストラリア産にはどうしてもなかったのである。「香り高く、しかもオーストラリア産に負けない品質の、県独自の小麦を開発して欲しい」うどん職人は組合を通じ県に要望書を出す。
―――その熱意は、やがて県を動かした。
平成3年、香川県農業試験場で小麦の開発が始まった。リーダーは農業研究員の多田伸司。メンバーは2名。涙を流しながら多田たちは4000種類以上の品種候補を育てる。
それから数年間をかけ、選抜作業を繰り返していった。ついに残った候補は2種類「香育7号」と「香育8号」だった。平成10年、多田は最終候補となった小麦を、地元の製粉業者やうどん職人に披露する。
「県産うどん研究会」発足
平成10年(1998)年。香川県の呼びかけで、県下の人々が結集する研究会『県産うどん開発研究会』が発足した。 製粉業者、製麺業者、生産団体、学識経験者等々が集まり、様々な角度から新品種の小麦を検討するというものだった。 前代未聞の“うどんプロジェクト”。 その始まりである。
「ふるさとの小麦を完成させろ」
農家、試験場職員、製粉業者、うどん職人。理想のさぬきうどんを目指した人々たちは力を合わせ、最後の難関に挑む。
『県産うどん開発研究会』に参加するメンバーはみな同じ思いだった。親の代から製粉業をこの地で営む吉原良一も、そんな一人だった。吉原も以前から地元の小麦を少しでも多く流通させたいと願っていた。吉原はその思いを次のように表現する。
「自分が生まれた讃岐でとれた小麦というのは、消費者の方にわれわれが届けて当然だという気持ちもありますんでね。讃岐においても、おそらくは1500年以上の小麦の歴史というのがあって、絶えることなくずっと続いてきてるはずなんですね。戦前はいまの10倍以上の生産量がありましたし、脈々と続いてきた。われわれの土地でつくられた穀物なんですよね。非常に大事な食文化でもあるし大切にしたいという思いがあります。
あと一つは食糧自給率ということ。いまわれわれは何千キロも海のかなたのアメリカ、カナダ、オーストラリアから小麦を運んできて食べさせてもらってますけど、やはり自分たちのそういう大事な穀物を、ずっと育てつづける、維持しつづける、あるいはもっと振興するということ、これは小麦関係に携わる業界としてやるべきことだろうと思ってます」
かつて吉原は国産小麦品種を小豆島の農家に頼み込んで栽培してもらい、製粉し国産麦の消費を少しでも増やしたいと挑んだこともあった。そうした地元小麦に対する独自の活動を続けてきた吉原にとって、今回の研究会の発足は願ってもないものだった。吉原は当時を振り返ってこう言う。
「やはりいろいろな立場の意見が出ますから、それはお互いにすごい勉強になったんじゃないでしょうか。一つのものを開発するという手段としては、ものすごく有効だったと思いますね」
この研究会で、残った候補である「香育7号」と「香育8号」を食べ比べ、多くの参加者が「香育7号」を支持した。吉原も香育7号の出来に驚き、かつての地元の粉との共通性以上に、より新しい可能性を香育7号に感じていた。
「これはすごくよく練られた完成度の高い小麦粉だと思いましたね。戦略性がはっきりしている。うどんを見たときに、もう従来の内麦(国産麦)の考え方ではつくられてないなというのは直感しましたですね。だからオーストラリア(の“ASW”)に近い。同じとはまだいえませんけどもね、その方向性ははっきり伝わりましたね。」
こうして新品種は「香育7号」に決定し、“さぬきの夢2000”と名付けられた。
“さぬきの夢2000” 必ず挽いてみせる
しかしここで問題が発生した。研究が進むにつれ、“さぬきの夢2000”の弱点が露わになっていったのである。
持ち帰った小麦を挽いてみたところ、皮と実が離れにくく、粉に粘りがあり、製粉機にこびりついてしまう。製麺業者からは「麺が切れる。打つとバラバラになる」という声が上がった。新品種の欠点を前に、動き出した男たちがいた。
「欠点は俺たちが補う」―――製粉業者、うどん打ち職人。うどんプロジェクトのメンバーたちだった。
その一人、さぬき麺業 香川政明。少々の弱点でこの品種を諦めることなどできるわけがなかった。
「やっぱりどうしてもさぬきうどんにこだわりたいと。それには、製粉会社さんにですね、”さぬきの夢2000”というものを非常に上手に製粉してもらって、その分を私たちが十分特徴を知って製麺するということだと」
父の代から製粉業を営む吉原良一も、同じ考えだった。小麦がこびりつきやすいなら、製粉の仕方の工夫で克服すればよいではないか。自分たちの先祖たちは太古からこの地で小麦を挽いてきたのだ。近代技術を手にした俺たちにできないはずはない。弱点があることで否定的に見るよりも、その長所を大切にすることのほうが優先されるべきだ―。
「平均点をとるということをめざすよりは、独自性をめざす。そのためには目標をはっきり決めて、それに向かうっていうことですよね。仮に弱点が出たとしても、それをどうカバーするかっていうのは業界で取り組めばいい」
さっそく挽いてみた。予想以上の粘り。機械が悲鳴を上げる。吉原は、挽いた粉をじっと見た。どうすれば皮離れの悪さを技術でカバーできるか。吉原は、約50段階ある挽砕工程のうち、初期に強い力を加えることで、胚乳を取り出しやすくしようと考えた。さらに、小麦粉を網で篩う作業にも工夫を加えた。
数日後、出来た粉は機械にこびりつかなかった。手に取り、色を見た。あっと思った。明るい白に加え、食欲をそそるイエローがかかっていた。吉原は思った。
「クリーミーな黄色。絶対新しいものが生まれる。間違いなく」
ふるさとを挙げて取り戻した誇り
試験場の多田は、最後の勝負に出た。「香川県人がうまいと思わなければ、このうどんの将来はない」県内一斉アンケート調査を行うことを考えた。 香川政明の店を含む県内28ヶ所で調査が行われ、続々と“さぬきの夢2000”を食した人々が書いたアンケート用紙が集まってきた。
「昔懐かしい、うどんの香りがします」「なめらかでのどごしがよいです」
ふるさとの小麦への、人々の思いが込もっていた。
製粉業の吉原も、アンケートの結果にうれしさと驚きを感じていた。驚きとは、「懐かしい」という表現を年配の人だけでなく、若い年齢層も使っていたからだった。
「評価はすごく高かったですよね。やはり一つはね、「懐かしい」っていうね、そういう感想が多かったんですよね。若い方も「懐かしい」って。不思議に思うんですけど、やっぱりそれはわれわれが持ってるもんかもしれませんね。特に讃岐の人が持ってる、ずっとそういうのになじんで食べてきたっていう、何かそういうものがあるんかもしれないなと思ったりして」
讃岐の人々一人ひとりに脈々と受け継がれてきた、うどんへの愛情。
それが、“さぬきの夢2000”への「懐かしい」という評価につながったのかもしれない。