どうなる日本の食糧

2010(平成22)年8月に入って直ぐ、国内で一斉に報道され始めた「ロシアでの小麦の干ばつ被害」。

2007〜2008年に世界の小麦相場が急騰したことはまだついこの間ですが、今回は世界の小麦生産第3位のロシアが、「輸出規制をするのはないか」との観測が広がったことで、一気に市場が反応したのが始まりでした。
実際、ロシア政府は、8月5日に小麦など穀物の輸出を(H22.8.15〜12.31)まで禁止することを発表しました。

干ばつによる被害を受けて、ロシアの小麦の今年度の生産量予測は約7,000万トンで、昨年の26%減。とはいえ、ロシアには約2,000万トンの穀物在庫を持っており、これを放出すれば問題ないとしていましたが、市場価格の急騰につられて、ロシアの小麦も市場に大量に出ることを避けるため、一時輸出禁止をしたわけです。
米国の小麦生産者にとっては、今年も豊作でしかも去年度からの持ち越し在庫も十分のため、この相場高騰は生産者にとっては、大変好ましい状況と言えるでしょう。

【過去にもあった・・・昭和47年、旧ソ連発の世界的な小麦高騰と食糧危機】

ロシア(旧ソ連を含む)の天候要因による小麦生産減が引き起こす国際市場の高騰は、戦後2回目です。
1回目は38年前の昭和47(1972)年。ただこの時は、今回の状況とは違います。「世界在庫があるのに、市場の”買い”で相場が急騰した」今回とは違い、(旧)ソ連が、世界在庫が減少している国際市場で、しかも世界的な天候不良によって世界の穀物生産が減産した中、米国などから膨大な量の穀物買い付けを突然行ったことから、国際相場が急騰したというものです。

この時は、以下のような状況でした。

(1)昭和47〜48年、異常気象による世界規模の食料(穀物など)の減産が起きた。穀物生産量:小麦 3.1%減・コメ 3.9%減・飼料穀物(トウモロコシ、大麦など) 3.6%減。

(2)その状況下、旧ソ連は米国と「米ソ穀物協定」を結び、72〜73年に米国から小麦 約1,100万トン、飼料穀物 約700万トン、小麦の総計:1,855万トンを 買付けた。その量は、世界の小麦貿易量7,090万トンの26%に達する膨大なものだった。
また、中国も米国産小麦50万トンの買付成約を行っていて、カナダ等からの買入を含めると、530万トンを買付けた。(因みに、日本の平成22年度の輸入小麦の買入量の見通しは、496万トンであることからも、このときの中ソの小麦買入量の大きさを知ることができます。)

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当時の日本では、輸入小麦の価格は国がいわゆる食糧管理法によって統制・管理していたため、昭和48年12月に、輸入小麦平均35%の引上げが行われるまで、国内の小麦価格の上昇はありませんでしたが、日本の輸入小麦の買い付け量が減り、国内で小麦不足が発生、特に麺業界は大混乱に陥りました。
この世界的食糧危機の2年間は、世界的な天候不順による穀物不作でしたから、オーストラリア産小麦も同じ状態でした。昭和48年のオーストラリアからの小麦輸入は、食糧・飼糧合わせて 約14万トンで、前年の73万トンのなんと19%程度に激減したのです。

【昭和47年 その頃の日本の小麦生産は。】

さて、その頃の国内産小麦はどうだったのでしょうか?
当時日本の小麦生産は「麦の安楽死」と呼ばれた時代で、生産減少の一途をたどる真っ只中。この世界的食糧危機の4年前の昭和43年には101万トンあった生産量が、昭和47年には28万トン、昭和48年には20万トンまで激減していました。
これらの国内外の重なる要因から、国内の麺業界は原料の小麦粉が不足し、大変な混乱状態に陥ったのです。

亡くなった私の父からよく聞きましたが、早朝から製粉工場の門の前で購入希望者が待っていたとか、なんとか買いだめができたうどん店では、粉置き場に入りきらないので、畳の下に小麦粉の袋を入れていたとか...

【しかし、小麦輸出量世界No.1の米国は十分な在庫を持っていた。】

この状況下でも米国は、小麦在庫は過剰状態で輸出余力は十分にあり、むしろ輸出の好機と捉え、ロシアや中国に向けて前述のように、2000万トン近くを輸出。日本向けの小麦もハード系(パン用)、ソフト系(菓子・一般用)共に、むしろこの2年間の米国からの輸入量は、それ以前より増加しています。

特に注目すべきは、日本が輸入した小麦の内、激減したオーストラリア産小麦を尻目に、米国の薄力系小麦が約33万トン(+36%)増加しています。その量からみて、それまで、国内産小麦や豪州産を使っていたうどん・そうめんなどの日本麺に、代替原料として使われたと思われます。実際、当社でも当時、米国産の薄力系小麦でうどん用小麦粉を生産していました。

今回もまた、ロシア・ウクライナ・カザフスタンなど旧ソ連地域の小麦減産をカバーするのは、小麦輸出量世界No.1で、在庫も十分持つ「穀物大国の米国」と言えます。
ちなみに、この世界的食糧不足の昭和48年以降、さらに米国の日本への小麦輸出量は増加していきます。このことも含めて、戦後、米国が日本への小麦輸出量を増加させていく状況や過程を見ていると、いかに米国の穀物販売戦略が、生産能力的にも、政治的にも、経済戦略的にも強力であるかを認識させられます。

【38年前の食料不足の要因は、現在も変わらず!という事実】

この時の経済企画庁(昭和48年)の世界経済報告では、「世界の食料不足の要因」には、構造的な要因があるとしていて、
・先進国における畜産物需要の拡大
・発展途上国における人口増加
が、天候不良による世界的な穀物減産に加わったため、と分析しています。
なんと!・・・・これは、ほぼ現在の「食料危機」と同じとも言える情勢ですね。

当時、冷戦状態だった米ソですが、これだけの膨大な小麦を、旧ソ連が敵国とも言える米国から買付けできたのは、72年以降 ニクソン旧米大統領の訪ソによって東西緊張の緩和が進む流れの中だったから、という指摘もされています。

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【昭和47年の頃の日本の農業政策は。】

農林水産省の資料によれば、昭和30年半ば以降、高度成長期に入った日本では農業人口は減少の一途で、稲作の裏で行われる麦の生産が激減していきました。昭和38年の西日本の長雨(NHK番組「プロジェクトX」でも、麦生産が廃れていくきっかけとして紹介されていましたね。)による被害を契機に、水田の冬期不作付地(麦を作付しない=冬の間、田んぼを遊ばせている)が増大していきました。

昭和46年度から、コメの生産調整対策として、小麦またはビール大麦を作付けして、その後作として水稲を作付けしなかった場合は、10a(アール)あたり3万5,000円が転作奨励金として支払われるようになりました。要するに、過剰なコメ生産を抑え、激減した麦類の生産を奨励しようとしたのです。
これは、現在の「コメの生産調整」まで、多少の制度の違いや助成(奨励)金額が変わったにせよ、基本的には延々とコメ対策が続いているということを示しています。

「コメを減らして、麦を増そう」という農業政策を進めようとしていた矢先に、昭和47年 前述の旧ソ連が引き起こした小麦高騰と食料危機がやってきたのでした。


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