季節のたより

さぬきうどんの伝統を継承し発展を図ることを目的として、文化的・技術的活動を行っているさぬきうどん研究会(会長/諏訪輝生)は10月15日、高松市の香川県社会福祉総合センターで、『さぬきうどん文化の過去・現在・未来』をテーマに講演会と座談会を開催しました。参加者は、さぬきうどん研究会の会員や一般客など約40名。

吉原良一社長は「さぬきうどんの始祖の考察」をテーマに、讃岐の小麦生産はいつ頃どのように始まったか、なぜこの地域でうどん文化が発達したのか、歴史の資料を基に考察した内容を披露し、小麦製粉の立場からさぬきうどんの歴史をひもときました。
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以下、講演内容の概略です。
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うどん食の普及及び発達には、小麦・川(水車動力)・製粉(臼)の要素が不可欠であり、麺文化としては「仏教と寺院の食(斎食、儀典)」「門前町・参道等の飲食」「庶民の食習俗」を分けて考える必要があるのではと提起した。

讃岐の小麦づくりは、5~6世紀頃に朝鮮半島から秦氏(はたうじ)によってもたらされた焼畑・定畑の技術と共に発展した可能性を指摘。秦人が多く住んでいた地方は、大和、山城、河内、摂津、和泉、近江、美濃、若狭、讃岐、伊予などであったとされ、当時から香川と愛媛地域は大陸からの先進的な畑作技術の導入や、種子が持ち込まれたことも考えられるとした。

仁和2年(886年)、讃岐・龍燈院のすぐ横を流れる綾川に実在した水車(寺車)の記録がある。龍燈院は、行基・空海などの日本で最高位レベルの大師が開祖した寺院であることから、唐に学んだ儀典に因んで小麦など穀物を挽き、寺院の斎食や供養の食事等に使っていた可能性がある。又、平城宮址(あと)から発掘された木簡(もっかん)に「讃岐国」及び「秦」の名を記したものが10点近くあり、平城宮に穀物を献上するほどの農耕技術と生産体制を持っていたことがわかる。

近代に移り、江戸期からの讃岐の水車の設置台数の推移を示すと共に、全国でも有数の小作農比率の高さと狭い耕地という事情により、悲惨とも言える農民の生活の中から、言わば「生きるために麦を食べる」という流れの中で、庶民の食風俗としてのさぬきうどんが生まれたのではないかと論じた。

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座談会では、さぬきうどんと香川県産小麦 さぬきの夢の普及に重要な役割を担った、元香川県農業試験場の多田伸司氏、さぬき麺業社長の香川政明氏が登壇。又、元・香川県農業改良課の大熊千鶴子氏、黒川氏、吉原氏を加えて「さぬきうどん文化の過去・現在・未来」について、それぞれの立場で、さぬきうどんの将来について語った。
麺業新聞社(平成28年11月18日付記事).pdf


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