さぬきうどんの名人たち

高松市中野町にある「松下製麺所」を訪問し
店主の松下 守氏に製麺所を始めた頃のことやさぬきうどんへの思いなどを聞きしました。
以下、松下さんの話です。


1.製麺所を始めた頃のこと

昭和41年に伊賀製麺所の後を継ぎ、「松下製麺所」として営業を開始して、今年(平成30年)で52年になります。その当時、香川県生麺事業協同組合の組合員は製麺所がほとんどで、うどん飲食店、大衆食堂、八百屋、旅館、公官庁の食堂などにうどん玉を卸していました。

昭和40~50年代のうどん玉の卸業は、テリトリ(商売エリア)が厳格で、各製麺所の競争があり厳しかった。しかし、需要は増えていたし生麺事業協同組合があったので調整しながら、製麺所は協調するべきところは協調して順調に営業を続けました。

そして私は、昭和50年にセルフのうどん店(飲食店)を始めました。
振り返ってみると、昭和40年代後半にスーパーが伸び始めて八百屋など街の小売りが減少していき、その流通の変化に伴って市内の製麺所は徐々にすたれていったと思います。それでも当時、修学旅行で高松に来る学校が多く、300玉位一度に旅館へ納品したものです。その時は大忙しですが。やる時にはやるぞという感じで頑張った記憶があります。

2.オーストラリア産の小麦粉を使って

昭和40年代、香川県産小麦からオーストラリア産小麦(ASW)の小麦粉に変わると、麺が切れにくくなり、すごく打ち易くなりました。うどんの食感は、当時の香川県の小麦のうどんはやや硬めだったのですが、ASWに変わってからソフト感があり良くなったと思います。


3.うどん打ちへのこだわり  

私はミキング以外、全て足踏みと手揉みで作ります。父はブリキ職人でした。私も職人気質がありきちっと作りこまないと気が済まない性格だと思います。本来、さぬきうどんは足踏みして手で揉んで作るものだと思います。ミキサーと麺の切落とし機は、昭和41年から今も変わっていないんです。  
昔、先輩のうどん職人から、「うどんは“茹で”が最も大事。うどんを生かすも殺すも茹で方次第だ。」 と教えられました。うどんを打つ技術と同時に、最後の仕上げの茹工程も大事にしています。  

4.さぬきうどんの味わい  

今風な、いろいろな具材を乗せたうどんは美味しいけれど、うどんそのものの味がわからなくなる気がします。うどん(麺)を食べる、味わうという感じではないように思います。  
私が思う美味しいうどんは、子供が出汁にもつけずにうどんの麺をそのまま一口食べて「美味しい!もっと食べたい」と言うような、味わいのあるうどんなのです。


松下製麺所:香川県高松市中野町2−2



~ 松下 守さんのお話を聞いて ~

今のさぬきうどんの製麺技術の基礎を作ったのは、昭和30年代から40年代にかけての製麺所でした。 朝打ったうどんが、夜あるいは翌日に食べられるかもしれない。茹でて時間がたっても麺が切れずに、美味しく食べられる・・・この条件を満たすための製麺技術が、今のさぬきうどんの技術のベースにあります。 松下さんが、「茹時間が大事」とおっしゃるのも、製麺所ならではの感覚ではないかと思います。
茹時間が短く硬すぎても美味しくないし、茹時間が長いと時間が経った時に柔らかくなり過ぎて麺が切れてしまう・・・この間の絶妙なうどんの茹で状態を感じ取って、最適の状態で釜からうどんを上げるのも一つの大事な技術だったのだと思います。

松下さんがおっしゃる「美味しいうどん」の条件ですが、私も幼少の頃(昭和30年代後半)、法事の時等にでてくる湯だめうどん(お湯をはった丼に入れたうどんをイリコ風味の強い濃いめのつゆに浸けて食べるうどん)を、つゆに浸けずに丼からそのままうどんだけを食べるのが好きでした。うどんの適度な塩味と、何とも言えない風味がありそれはとても美味しかったのです。

松下製麺所の使い込まれた製麺機も厨房の床も輝くほどに磨かれています。昭和40年代の雰囲気そのままに、さぬきうどんの原点の技術が今も存在し続けている松下製麺所。そしてそこには、40年を超えてさぬきうどんを作り続ける松下 守さんを支えるご家族が元気に働く姿がありました。


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